司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 
 東電OL殺人事件のゴビンダさんに、再審決定が出た。二審のときのように、また、直前で帰国を妨害されるのではないかと、人ごとながら、気を揉んだが、無事、17年ぶりに、祖国ネパールに帰り着いたという報道がされていた。ほっとした。

 この事件は、当初から冤罪だという声が強く、本来なら一審無罪判決が出た時点で勝負がついていたはずのものだった。敢えて言うが、ろくに審理も尽くさず、無期懲役の判決を出した高裁裁判官たちの責任は極めて重い。

 再審決定を伝える報道を見ていたら、ヤメ判の弁護士が、したり顔で、「あの当時の証拠では、有罪判決になったのはやむを得なかった。高裁の裁判官を責められない」というような発言をしていた。思わず、「何言ってやがる」と突っ込みを入れてしまったが、本当に、世の裁判官は、自分たちの負っている責任をなんと考えているのか、唖然とせざるを得なかった。

 この事件では、検察の証拠隠しが取りざたされているが、検察が不利な証拠を隠そうとするのは当たり前のことで、無実の者を獄に繋いでおいて、「検察が証拠を出さなかったから分かりませんでした」などというのは、何の言い訳にもならない。

 この事件で、弁護団は、早い段階から、真犯人と思われる第三者の存在を指摘しており、証拠開示を求め、鑑定を請求していたはずだが、裁判所は、そうした弁護団の言い分に耳を傾けず、木で鼻をくくったような対応で淡々と(彼らの言い方では、粛々と、ということになるのだろう)、あるべき証拠に自ら背を向けながら、有罪判決を書き上げてしまったのだ。

 責任は、偏に、裁判官の傲慢と怠慢とに帰する。無罪を争うような刑事事件をやったことのある弁護士は、多かれ少なかれ、同じような思いを抱いているのではないだろうか。

 これまで、裁判官は、「裁判官は判決以外に語らず」と言っていれば済んでいた。しかし、科学技術が進歩し、何年も経った後、誤判の恥が暴かれるようになった。また、裁判員の導入で、良くも悪くも、裁判に対する社会の見方も変わりつつある。裁判官の判断が、上級審という、裁判所内の内輪のレビューに止まらず、歴史の審判を受けるようになってきたというわけだ。

 裁判官には、そのことの意味をよく理解してもらう必要がある(もちろん、元々そういう重い責任を負っていたはずなのだが、ゴビンダ事件の高裁裁判官に、そんな自覚があったとは思えない。そうした裁判官達は、検察との信頼関係に重きを置くばかりに、裁判官の社会的使命を忘れたのだと言われても仕方ないだろう)。



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