日弁連は14日、法制審議会の刑事司法制度部会で、刑事事件の取り調べの録音・録画(可視化)をめぐり、対象から警察の取り調べを暫定的に外し、検察レベルでの可視化の徹底を先行させるという提案を示したらしい。
議論が始まって3年、警察官僚の抵抗で、一向に着地点が見えない中でこれ以上警察を相手に道理を説いても、議論が長引くだけだと見切りを付けたということだろう。今後は、検察段階での完全可視化の実現に向けて勢力を集中させていくという意味合いもあるに違いない。悔しい思いはあるだろうが、現下の状況を冷静に見れば、次善の策として、納得できる対応ではないだろうか。
個人的な経験も踏まえて言わせてもらえれば、現場の刑事さん達が可視化に納得して取り調べ方法を変えていく可能性は限りなく低いように思われる。これまでの警察の教育では、そうした、人の目を気にした取り調べは、取り調べではないのだと位置づけられてきている。20年前の検察も同じようなものだった。捜査の職人を自負する人というのは、そうしたものなのだ。
それでも、これまで、曲がりなりにも検察が可視化に途を開かざるを得なかったのは、不祥事が重なったという理由もあるだろうが、やはり、検事は法曹であって、裁判官や弁護士と共に人権教育を受けてきているという面がおおきく影響しているように思う。検察教官がよく言っていた言葉に、検察こそが人権の最後の拠り所だというのがあった。実際、それはある意味で真実の一面を突いている。100%のベストではないものの、検察レベルの完全可視化はかなり有力な武器になるであろう。検察の可視化の成果が裁判上も反映されてくれば、警察も、いつまでも抵抗を続けるということはできまい。それこそが本丸だ。
反面、我々弁護士の責任も重い。検事のとき、上司から言われたのは、敵は被疑者ではなく、弁護士であり、裁判官だということだった。検察に対峙するのは、弁護士だ。形式的に可視化をさせても、それを個々の弁護人が実際の裁判に生かしていくことができなければ、警察を変えていくのは余計に難しくなってしまうだろう。遠い道のりだが、道程は次のレベルに移ったと信じたいものだ。