今年は、戦後69年と、やや中途半端な年でもあるためか、テレビをみても、例年に比べて、戦争に関する報道やドラマなどが低調であるような気がする。単に私自身が忙しすぎて、戦後を振り返っている余裕を失っているだけなのかもしれないが、何だか、戦争に対する社会的雰囲気が、いつの間にか大きく変化している事実を目の当たりに突きつけられているようで、気がかりだ。
巷には、嫌韓、嫌中本が出回り、賛否いずれの立場からも、隣国との開戦が妙なリアリティーをもって語られている。数年前まで、こんな状況になるとは、想像もしていなかった。タブーだったものが、あっという間にたがが外れ、一気に戦争へのハードルが下がってしまったかのような印象ではないか。他方で、日本や日本人を絶賛する自画自賛の論調が、すごくマイルドな形で、ナショナリズムをくすぐる。
もちろん、尖閣や竹島の領有権問題は兼ねてからの懸案であり、突如発生した問題ではない(30年前、国際法のテキストをみて、こんな問題があるんだと感心したことを思い出す。まさか司法試験には出ないだろうと、スルーしてしまったが)。しかし、この問題がヒートアップし、マスコミも含め、そのために戦争をするのかという文脈で普通に人々の話題に上るようになったのは、尖閣国有化や、李大統領のある意味で幼稚な反日パフォーマンスがあってからのことで、ほんの数年前の出来事が発端だ。
東日本大震災の衝撃が、改めて日本人に国家というものの存在を意識させたという側面もあるのかもしれないが、戦後、60年あまりもの間、曲がりなりにもなんとか持ちこたえていた国全体の反戦の気概が、こうも簡単にかなぐり捨てられてしまうのは、驚きを通り越して、恐ろしい限りだ。為政者が煽りに入った時のナショナリズムの勢いというのはこういうものなのだろう。
私は、日本国憲法は、人類の叡智の結集だと信じているが、この勢いの前には、人類の遺産も、ひとたまりもないのかもしれない。