あっけなく高裁の第1回の期日が終わった。この先、二審がどういう展開になるのか、社協側がこれからどう出てくるのか、この段階で私たちには依然として皆目分からなかった。ただ、改めて、またこの訳の分からない司法と向き合う日が始まったのだ、という自覚は出来ていた。もう一度自分自身にスイッチを押し、なんとも先の見えない、優れない気持ちを吹き飛ばすしかなかった。
限られた時間の中での勝負となるだろう高裁で、彼らを迎え撃つ手はどうするか――。彼らは一審で、弁護士なしの私たちに負けた分、今度は場外乱闘(裁判外での圧力等)含めて、なりふりかまわず様々なことを仕掛けてくるだろう。そして、彼らに雇われている弁護士もクライアントの信用を勝ち得るため、そして自らの面子を取り戻すため、必死になりかかってくるだろう。そんなことが予想された。
裁判所が地上戦ならば、場外乱闘は空中戦といったところだろうか。司法の場とは違うそのやり口を、私たちは感じてきた。怯えたような加害者家族の様子も忘れられない。地域社会のつながりのなかで、どんな嫌がらせをして、私たちに精神的な圧力をかけてくるのか、分からない。その意味で、彼らはまだ全力を使っていないのではないか、という警戒心も持っていた。
本人訴訟というだけでなく、私たちの事件は、そういう小さな地域社会の密なつながりのなかで起きたという特殊性があった。噂はすぐひろがり、そして、知っている顔が敵と味方に分かれる。誰を信じていいいのか分からないような疑心暗鬼も生まれるのだ。
こういう狭い世界で、真に味方になってくれる弁護士を見つけることがどんなに大変かも私たちは味わった。地域のつながりのなかで、弁護士もまた、その職責としての建て前は別として、敵とどういうつながりがあるか分からない。そういう現実も、結果として私たち家族を本人訴訟に向わせた、一つの要素になったことも事実なのだ。
いすれにしても、以前より敵の攻撃が増すことに私たちは身構えていた。ただ、ふとここで私は思った。われわれは今回彼らに、控訴された。つまり、今度は彼らが、我々を攻め、一審の判決を、論理的に覆す証拠や根拠を示さないといけないのではないか。果たして彼らに、それはできるのだろうか。正直、これまでの流れを踏まえ、私たち家族が膨大な時間を費やし、調査しことを照らし合わせると、彼らが簡単に一審が認めた事実とロジックを崩せるとは到底思えなかった。そして、仮に、彼らのロジックにより、負かされることがあっても、私たちに支払われる金額が大幅に減額されることはないのではないか、という気持ちになっていたのだった。
一審で私たちの主張が認められ、勝利したことが、やはり私の中で自信となっていたのだった。これが、再び司法に向き合う重い気持ちのなかで、私のなかで一審とは決定的に違う心境だったのだ。これは、確かめていなかったが、家族全員が同じ気持ちだったろう。もし、二審で金額を大幅に減らすようなことがあれば、一審の判決はなんだったのだ、ということになるはずだ――その時の私は、そんな風に考えてしまっていた。一審の勝利の喜びが、大きかったがゆえに、当然のようにそう思っていた。
しかし、とにかく、こちらは気を抜けない。こちらもまた、一審の内容をさらに深堀して、根拠を示す作業を考え、、やり遂げるだけだ。そんな思いで挑んでいった。