3日間というニューヨーク滞在期間は、あまりにも短かった。兄の帰国のための荷造りの手伝いも中途半端に終わってしまった。もう数日間、延長し滞在したかったのが、本音だった。
帰国間際、様々なことが頭に浮かんだ。日本に帰れば、日中は仕事、夜は、今回の民事裁判に関する資料に目を通す作業に追われる日々になる。兄が、日本に完全帰国することが確定したのは心強いが、今までのことを振り返ると、これから何が起こるか分からない。そんな不安感が頭をもたげた。
そう思いながら、兄のアパートから見える、ニューヨークの夜景を見ていると、ふと、ここにかつて自分が暮らしていた頃のことが、まるで、昨日のことのように蘇ってきた。当時も、ライトアップされた「眠らない街」は、いつも華麗で賑やかな姿を見せていた。が、その一方、多くの犯罪、テロ、暴動は、常に身近で、危険はいつも隣り合わせだった。
当時の体験を振り返り出すと、きりがなくなるのだが、1990年ごろのニューヨークは、地下鉄の壁に落書きが、若干残り、タイムズスクエア―周辺には、「当たりやジャンキー」といった連中が、ごろごろしていた。買った本では、夕方、5時以降は、チャイナタウンを歩くと危険だ、と警告していた。
また、この街には、世界中から、いろいろな民族が移住し、宗教上の理由、人種間の対立も後を絶たず、人々の摩擦は連日のように路上で、繰り返されていた。はじめて、その光景を見たときは、そのあまりの迫力に、どちらかが撃ち殺される、と感じたことを覚えている。高校卒業するやいなや、周囲の反対を押し切り、ギター一本で、このスリリングな場所にやってきたのだった。
一方で、アートに関しては、才人が集結している場所だった。あらゆる面で一流な才能の固まり、怪物のような存在がいたように思えた。そんな才人がうごめく中に飛び込み、自分の力を知らずに無謀にも、競い合いながら活動をしてきた。今にしてみれば、恐れを知らないからこそ、「型破り」な行動がとれたようにも思える。
そんなことを思い出しながら、ふと、今の自分に備わっている感覚、あるいは直感というべきものが、実は、この街で培われたものではないか、という気持ちになった。それは、自分のなかにある危険に対する警戒意識。この危険が潜んでいる街で、常に緊張感を保ちながらの行動してきた、あるいはせざるを得ない状況だったことが、自分に強くこの意識を植え付けたように思えたのだった。安全な日本にいたときには、なかった感覚だった。
思わぬ事件に巻き込まれ、そして裁判という体験したことのない、そして先行きが分からない状況に、陥っている私たち家族。これまでの経緯のなかで、自分はこれからの成り行きにも、相当な警戒感をもって臨むつもりになっていた。その自分のなかの感覚が、なぜかこの時、このニューヨークで培われた感覚とつながった。むしろ、あの時代のあの緊張感、あの感覚を思い出した、というべきかもしれない。
今回の事件さえなければ、別の気持ちで、久々のニューヨークを味わえたのかもしれない、と思いながら、今回は、なんとなく、この地に置き忘れていた「感覚」を拾いにきたのだという気持ちになっていた。