弁護士を付けずに、本人訴訟を闘い、一審で勝利した私たちであったが、正直、この状況に慣れるということはなく、分からないことだらけのなかで、暗中模索が続いていた。その意味では、一審からずっと同じ心境であり、むしろ司法への疑問、不信のようなものは、膨らむ一方だった。
そして、これまでも何度も書いてきたように、そうした疑問に突き当たる度に思いは、弁護士不在という現実にいってしまうのだ。今、弁護士が傍らにいたならば、この状況についてなんと言うのだろうか。今抱えている疑問を率直にぶつけたならば、どんな答えが返ってくるのだろうか。あるいは、「こんなことは常識ですよ」と笑い飛ばして、こちらを納得させてくれるのだろうか、それとも「これは問題です」と言って一緒に抗議してくれるのか――。
素人でも独自に調べられることは沢山ある。ただ、現実問題として、裁判のながで度々もたげてくる疑問や不信に、私たちの事情や置かれている状況を知り、同じものを見ている専門家が横にいて、判断してくれるという意味は、大きいのである。
もちろん、その弁護士の所見をすべて信じられるかどうかという問題はある。いや、丸ごと信じられなかったからこそ、われわれは本人訴訟を選択したのだった。ただ、それでも 多分、私たちは通常の弁護士を付けた当事者よりも、何倍もの疑問を抱え、精神的に厳しい状況で闘うことを強いられている。本人訴訟を選択し、それに臨む市民として、それは重々覚悟しなければならないことだった、というのを思い知らされた気持ちだった。
相手側女性弁護士の「産休」という事情が明かされて以降、裁判日程は明らかにスピートアップされた。そこからの争点整理は、手短な作業になり、加速されたのである。その点で高裁の対応は、一審の時とはまるで、別のものになっていた。
女性弁護士・妊婦さんの体調を、見ながらの進行だったのだろう。ただ、既に書いたように、その弁護士の女性としての立場は十分理解できても、その個人的な事情を優先させて、裁判所が協力し、当事者に不利益になるかもしれない日程が組まれることが、私たちは全く理解できなかった。こうした場合、何か別の対応の仕方があるべきではないだろうか。裁判の短縮化は、司法全体の目標であったとしても、弁護士の個人的な事情が絡むことを裁判所が認め、また、何かしらの手を打つように弁護士側に支持しないことが不思議でならなかった。
争点整理の最終盤も、こちらが、何を主張しても弾き飛ばされるような扱いに、少なくとも私にはとれた。これが、弁護士なしの怖さなのだろうか、と考えてしまった。重大な人権無視がなされたのではないか、という思いが、今も焦げ付いたように残っている。
「さて、どうしますか。和解しますか。それとも、判決を望みますか」
最後に、裁判官はこともなげに、私たちにそう言ってきた。「えっ、もうですか?」と答える私。「はい、どうしますか」とたずねる裁判官。
沈黙が続いた。