〈「戦争放棄」の規定の外交上の役割〉
戦争放棄の規定は外交上、つまり、日本が世界の各国との交渉・交際をする上で、どのような役割を果たしているのでしょうか。戦後72年間、日本は戦争に巻き込まれなかったという一事を以って、「戦争放棄」の規定が果たしてきた役割は絶大であったと評価しなければならないと思います。
湾岸戦争(1990-1991)において、多国籍軍への参加を求められた際に拒絶できたのは、日本国憲法に「戦争放棄」の規定があったからであることは間違いありません。「戦争放棄」の規定は、集団的自衛権の行使さえ阻止できたのです。
当時の日本国首相の海部俊樹氏は、NHKのテレビ番組において、当時の米国大統領・ジョージ・ブッシュより多国籍軍への参加を強く求められた際、「日本国憲法には、9条の『戦争放棄』の規定があるからと言って拒絶した。最終的にはブッシュ大統領も納得した」と述懐していました。
憲法9条の「戦争放棄」の規定があるからこそ、日本は湾岸戦争に自衛隊員を送らずに済んだのです。外交上、9条の存在価値は絶大です。
湾岸戦争においては、日本は多国籍軍には参加しませんでしたが、多額の経済的負担をしました。経済的負担という形で、多国籍軍を支援したのです。「集団的自衛権」が大きな議論になりましたが、戦争を放棄しても、戦力を保持しなくても、それ相応のやり方で集団的自衛権の行使に負けない役割を果たすことは可能だと思います。このことを、海部元首相が示して見せたのです。安倍晋三首相は、自民党の後輩として海部元首相を見習うべきです。
日本国民は、武器を持って集団的自衛権に当たらなくとも、普段より勤勉に働き、国の経済力を高め、集団的自衛が必要となったら、経済的支援という形で集団的自衛に参加するという途があるのです。戦争を放棄しても、戦力を保持しなくても、国際貢献は可能です。
日本国憲法は、前文で「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と述べています。国際貢献は、「経済力」と「救助力」を以ってもできるのです。「戦力」に拠るよりも、その方がどこの国にとっても、どの人にとっても望ましいのです。
もし、日本国憲法に9条の「戦争放棄」の規定がなかったら、日本は湾岸戦争で多国籍軍に軍隊を送り出さなければならなかったことは明らかです。「戦争放棄」の規定があったから、米国をはじめとする多国籍軍に軍隊を送り出した各国も、納得しなければならなかったのです。
「戦争放棄」の規定があったことが、戦後72年間日本が戦争に巻き込まれなかった最大の理由なのです。「好戦国」「好戦国民」と言われた日本が、日本国民が、戦後一人も戦争で人を殺さずに、また、殺されずに済んでいるのです。その功績は高く評価されなければならないものです。
それが押しつけられてできたものだったとしても、この規定が果たしてきた役割を過小に評価することはできません。戦争に巻き込まれないということは、本当に凄いことなのです。憲法9条の「戦争放棄」の規定を評価するに当たり、このことは絶対に忘れてはならないことです。
憲法9条の「戦争放棄」の規定が外交に果たしてきた役割は、高く評価されなければならないのです。これからも、外交の切り札として活用しなければならないと確信します。
戦後72年間、日本国憲法9条が果たした役割を絶大でした。そのお陰で、日本は驚異的な復興を果たしました。日本国民は経済的にも恵まれ、平和を享受しています。この事実は忘れてはならないのです。
日清戦争は明治27年(1894年)から同28年(1985年)、日露戦争は同37年(1904年)から同38年(1905年)、日中戦争は昭和12年(1937年)から同16年(1941年)、太平洋戦争は同年から昭和20年(1945年)ですから、明治維新後の日本はほとんど戦争をしていたようなもので、戦争をしていない最長期間は、日露戦争から日中戦争の約30年間ということになります。
日本が明治維新以降で、72年間も戦争をしなかったのは、日本国憲法が「戦争放棄」の規定を創ってからのことなのです。過去の歴史と比べれば、「戦争放棄」の規定の功績は明らかです。
〈見方が浅い「押しつけ憲法」説〉
憲法9条は、直接的には占領軍指導によりできたものですから、「押しつけ憲法」などと悪口を言う連中もいます。その代表が安倍首相であり、石原慎太郎・元日本維新の会共同代表です。
ですが、日本がポツダム宣言を受諾し、占領され、戦争放棄に至ったのは、太平洋戦争で310万人もの同胞が犠牲になったことによるものです。つまり、日本人だけでも310万人もの命が失われた結果、「戦争放棄」の規定はできたのです。そのような犠牲者の存在を忘れたが如く、これを「押しつけ憲法」の一言で切り捨てる連中に対し、心の底から憤りを感じます。靖国神社を参拝したからとて、戦争犠牲者を心から供養したとは思えません。戦争で死んでいった人たちは、「二度と戦争などしないでほしい」と願ったはずです。
私は、仏教・インド思想の研究家である、ひろさちや氏の本が分かりやすくて大好きです。ひろ氏は、「因果にこだわるな――仏教ならこう考える」(春秋社刊、2010年第1刷)の中で、「因縁の因は直接原因、縁は間接条件と使い分けされるようになった」と書いています。
この区別でいくと、「日本国憲法は、押し付け憲法だ」という人たちは、因の部分だけ見ているように思えてなりません。
ひろ氏は、「エレベーターに太った1人が乗り込んだと同時に定員オーバーのブザーが鳴った時、その1人だけが原因のような考えがちだが、前から乗っている人たちだって、ブザーがなる原因になっている」ということを述べています。「最後に乗り込んだ1人だけを悪者にするのはおかしい」というわけです。私もそう思います。
「押しつけ憲法」などという人たちは、深くものを見ていない人たちだと思います。日本は、長い間の因縁で、「戦争放棄」を憲法に謳ったのです。「マッカーサーに押しつけられた」という見方は、極めて浅いものの見方です。日本国憲法が「戦争放棄」を謳ったのは、孔子のいう「天命」であり、釈迦のいう「因縁」なのです。これは、素直に受け入れなければならないのです。
世界では6000万人、日本では310万人の犠牲の上にでき、戦後72年間日本を戦争に巻き込まなかった9条の「戦争放棄」の規定は、これからどこへ向かって歩むべきなのでしょうか。
私は、世界に目を向けて歩むべきだと確信しています。「戦争放棄」の規定は、世界に一国でも多く、「完全戦争放棄」の規定を置く国を創り出すための誘い水としての役割を果たしていくべきだと思います。
日本の「戦争放棄」の規定の存在を広く世界に知らせ、その効果を知らせ、他の国でも自衛戦争を含む「完全戦争放棄」をすべきであることを、日本国政府は勿論、日本国民一人一人が世界に向けて発信しなければならないのです。
日本の政治家は、過去の歴史認識に疎いだけでなく、本来の夢もけちくさく、考えや心が狭くて、こせこせしているように思えてなりません。世界をリードするくらいの意気込みがほしいものです。「Boys,be ambitious(少年よ、大志を抱け)」と言いたい気分です。東京オリンピック招致のプレゼンテーションにおいて、「完全戦争放棄の国・日本」と、日本の総理大臣なら言ってほしかったと思います。
吉田茂氏は、「平和愛好国の先頭に立ち」と言いました。マッカーサー元帥は、「私は戦争放棄の日本の提案を、世界全国民の慎重なる考察のために提供するものである」と述べました。幣原喜重郎氏は、「実際この改正案の第9条は、戦争の放棄を宣言し、わが国が全世界中最も徹底的な平和運動の先頭に立って指導的地位を占むることを示すものであります」と述べました。
「戦争放棄」の規定のお陰で、これまで復興・繁栄を成し遂げた日本は、これからはこれらの先人たちの心を汲み取って、全世界中の先頭に立って平和運動の指導的地位を占めなければならないのです。
(拙著「新・憲法の心 第3巻 戦争の放棄(その3)」から一部抜粋)
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