(2012年1月27日、仙台市職員労働組合の講演会から)
〈本当の民主主義といえるのか〉
私は1956年に仙台市の職員になりました。それから同じ56という数字の年が過ぎた今年、お誘いを受けてその仙台市の職員や関係する方々の前でお話をする機会を得たことは大変嬉しくまた奇縁のように思います。
近頃、朝起きたときに莫とした不安感を持ちます。老人性の鬱かとも思いますが、目覚めて、晴れ晴れした話題のないことも陰鬱な気分にしているのではないかとも思います。今、私は正直展望のない閉塞感を抱いています。
私は小学6年のとき仙台で空襲に遭い、現在の福島県双葉郡大熊町、合併前の当時大野村に疎開しそこで終戦を迎えました。あの福島第一原発のある町です。戦後は廃墟の中からのスタートだったのですが、当時そこには何とも言えない開放感がありました。しかし、成人し現実が見えてきたということもあったのかもしれませんが、経済が成長し豊かになるに従って、次第に陰鬱な気分になって来たように思います。
私はもともと口下手でこれまでは余り人の前で話すことをしませんでした。しかし、ここ数年のうちに何回か裁判員制度の話をするようになりました。私が裁判員制度の問題に取り組むようになったのは、法律が出来た翌年、2005年の仙台弁護士会会報に、たまたま年男の特権で、裁判員制度には問題がある、一般市民に対し裁判員になることを強制することは苦役を強いることではないかなどと掲載したことからです。それをきっかけにしてこの問題を少し深めて見たいと思い、いろいろ参考文献に当たったり司法制度改革審議会の議事録を読んだりしました。
そうしていくうちに初めに抱いた問題意識より深く、裁判員制度に危険な国家主義的、権力主義的支配の構図を感じとりました。これまで何回か論文等も書きました。建前は民主的といいますが、本当に民主的なのか、司法と民主主義とはどのような関係にあるのかを考え、「裁判員制度に見る民主主義の危うさ」と題する論説などを法律新聞紙上に発表させて頂きました。その論説では司法は民主主義とは直接は相容れないものであることなどを書きました。
また、そこからさらに民主主義そのものについて考えて見ました。最近、五木寛之氏の「下山の思想」という本を読み、そこで驚くべきことを知りました。或いはそのことはよく知られたことだったのかも知れませんが、私は初めて知りました。「民」という文字の語源は目を針で指す様を描いた象形文字であって、目に針を突いて見えなくした奴隷のこと、物の分からない多くの人々、支配下に置かれる人々のことを指す言葉だというのです。五木さんはそのためその字が好きではないと書いています。
私はたとえ語源がそのようなものであっても、民主主義という言葉の中で使うのであれば、そのような人々が主権者として政治を行う、つまり服従から逆に支配するもの、尊重さるべきものになったと捉えることも可能であり、その言葉は生きてくるのではないかと思います。しかし、現状は本当に民主主義の政治と言えるでしょうか。
〈ファシズムに変わる危険〉
福田歓一という政治学者は、民主主義を名乗る国は色々あるけれども、民主主義の根本的長所は人間が政治生活を営むうえにおいて人間の尊厳と両立するという一点にあると言われました。ウィンストン・チャーチルは第二次世界大戦でイギリスを勝利に導いた名宰相ですが、戦後選挙で敗北したときに、民主政治は最悪の政治形態だ、しかし過去の政治形態のうちでは最高のものだと言ったといわれます。
民主主義だから当然に良いというものではない。選挙で当選した、民主的に選ばれたという形を強調して権力の座に着いた者は、民主主義を隠れ蓑に使って暴走する危険がある。民主主義は容易にファシズムに変わる素地がある。善意がファシズムへの道を清めるという言葉もあります。
個人名を挙げて、恐縮ですが、先日私と同業の橋下徹という人が大阪府知事から大阪市長選挙に立候補し、大阪市民の大方の支持を受けて当選しました。彼はテレビに出て有名になった人のようです。確かに弁舌もさわやかで、頭脳明晰でしょう。個性的で既成のものに囚われない斬新なアイディアの持ち主のようにも思います。
しかし、彼は、君が代斉唱時に起立しない教員を処分することを内容とする府の条例を作ろうとした者です。先日、最高裁は、君が代斉唱時に起立しない教員に対し、画一的基準で懲戒処分をすることについて一定の制限をすべきである旨の判決をしました。職務命令そのものを憲法違反とする少数意見もありました。最高裁が何を言おうと人の考え方は多様であるのが当たり前ですから、橋下氏のその条例案の提出は一向にかまいませんが、弁護士として、人の思想信条という内心の自由に関することにそこまで鈍感であるということは私には信じられません。
しかし、既成の政党政治に対する不満の表れでしょうか、そのような人が大阪市民の圧倒的支持を受けて当選した、既成政党がそれにすり寄る、それがこの国の民主主義の現実なのです。私は心配し過ぎなのかも知れませんが、そのような我が国の民主主義の現実にナチス台頭の時のような危険を感じます。