司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 〈真の「国民主権の実質化」とは〉
 

 前述のように、国民主権の原理は国民こそが政治の主役であるという政治原理である。国政において国民が主権者つまり主役であるとは何を意味するかについての答えは、日本国憲法前文に集約されていると私は考える。

 

 民主主義国家においては治者と被治者とが同一であると言われるけれども、それは極めて観念的表現であって、民主主義国家においても国家権力は存し、それを行使し得るものと行使の対象となるものとは厳然として存する。民主主義国家の特徴は、その権力を行使する者を、君主や貴族などの一部の者とし、或いはそれらの者が選んだ者とするのではなく、国民が選ぶ者とするということである。いわゆる代表民主制或いは間接民主制といわれるものである。

 

 また、その権力の性質も専制国家のものとは異なる。専制国家においては、その権力は、専制君主、貴族など一部少数者の利益のための、いわば支配するための道具として存したが、民主国家においては国民全体の利益のために存する。

 

 国民は権力を行使し得る者を選任するけれども、その選任された権力者は、国民の上位に立つ者即ち支配者ではなく、却って国民に奉仕すべき者(憲法15条)いわゆる僕となる。しかし、現実には権力は生きた人間が行使するものであり、また権力にはそれを持ち行使することに快感や優越感を持たせる魔力があるから、権力者はその理念を離れていつしか権力者自身のために国民の福利をないがしろにし、或いは一部の有力な国民の圧力によってその種の者のみの利益のために濫用される危険性は常に存する。

 

 そのために、民主国家の制度としては常に権力者の把握する情報は権力者から国民に公開され且つ十分に説明され、権力者は国民に対し責任を負う者としてその監視の下に置かれ、国民のチェックを受け、仮に権力者が権利を濫用、悪用、誤用するようなことがあれば、最終的にその者は批判され罷免されるものとされていなければならない。権力に対する国民主権の行使とはかかることを言うのであって、それが現実になされる状態が我が国に存するとき、我が国は国民主権が実質化していると言えるものである。国民全体の意思によるのではなく、単にくじで個人に権力行使に関与させられることなどは、国民主権とは全く関係がなく、実質化などと言えるものでもない。

 

 

〈国民からの正当な授権〉

 

 憲法前文に「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」と規定されている。この国民の代表者に要請される資格は、国民の一般意思を指標としながら、しかもあらゆる分化的な個別の意思と利益を見失わず、社会的な現実の上に立ちつつ、しかも国民の理想を忘れないことである。つまり選良であり指導者たるべきものである(矢部貞治「政治学」p365)。

 

 国家権力三権の一翼を担う司法権力を行使するものも、かかる資格を有する国民の代表者でなければならない。その趣旨を受けて規定されたものが憲法「第6章 司法」の規定である。

 

 もとよりこの代表者たるものの全てが国民の直接選挙に基づくものでなければならないという趣旨ではなく、直接または間接に、主権者たる国民の意思に基づくよう手続が定められなければならないとの意である(芦部前掲p252)

 

 全ての権力は、この国民から正当に授権されたと評価され得るものでなければならないことを、ここで特に強調しておきたい。



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