司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 この国の「捜査」は、本当に恐ろしい。なぜならば、真実は関係ないことになるからだ。当局にとっては、発生した犯罪をめぐる真実がいかなるものであろうとも、ターゲットを有罪とすることこそが目的化する。しかも、そこにあるのは、それが許されるという確信であるとしかとらえることができない――。今回の福岡高裁宮崎支部が被告人を逆転無罪とした強姦事件、そしてさらにいえば、これまで私たちがこの国の司法で見せつけられてきた過去の冤罪事件を通して、私たちの社会が今、はっきりと認めなければならない、それが現実である。

 

 今回、無罪の決め手となったDNA。一審では女性の体内に残された精液についてDNAが微量で型の鑑定が不能という捜査側主張が認められ、精液の存在だけで有罪判決が導かれてしまった。それが弁護側の要請で改めて鑑定したところ、あっさりDNAは抽出され、被告人男性とは別のDNA型であるという結果。しかも、鑑定を担当した県警科学捜査研究所の職員が、数値など記したメモや使用した溶液を廃棄したことも明らかになった。

 

 高裁の裁判長も、一審での県警の鑑定の技術的な稚拙さという可能性を残しながらも、さすがにこう言わざるを得なかった。

 

 「DNA型が検出されたものの被告の型と合わず、捜査官の意向を受けて鑑定できなかったと報告した可能性も否定できない」

 

 気持ちが悪い現実が浮かび上がる。彼らの行動には、まかり間違っても無実の人間の有罪判決を導いてしまうわけにはいかないという恐れ、そしてそこから導かれるはずの慎重さをどうしても読みとることができない。ただ、もはやそうした見方そのものが、善意解釈にも感じてしまう。なぜなら、そこに「意向」があるかもしれないと司法までが言っているのだから。

 

 この「意向」とは何なのか。それこそがまさに冒頭に挙げた真実を度外視した彼らの目的達成のためのものにほかならない。犯人視の思い込みによるミスでは、到底片付けられない。彼らに反省を迫るものとして「疑わしきは被告人の利益に」という原則が必ず引用されるが、ある意味、そう言うレベルではない現実を私たちは見ているのではないだろうか。

 

 DNA鑑定という、供述偏重の捜査を改めさせる犯罪者特定の強力な手法の登場には、一面、人間の手によって管理されているという、逆の危険性も言われてきた。いわば、人間が介在することによるミスで、決定的な結論が導き出されてしまいかねないというものであり、今回の件についても、そのことを指摘する論者の言も流れている。ただ、むしろ前記はっきりした「意向」が存在するというのであれば、当然、そうした次元の話では収まらない。彼らにこれを都合のいい「武器」として独占させることこそ、注意しなければならないことになる。

 

 もちろん、捜査側だけでなく、もはやこの「意向」に沿う形にしか機能しなかった裁判官も同様である。責任が問われないなかで、冤罪が生み出されている現実については直視しなければならない。

 

 今回の問題について、捜査当局に反省を迫る大新聞の社説は、総じて捉え方が甘いという印象を持つ。端的に言って、権力犯罪ともいっていい冤罪の裏にある、前記目的と「意向」を直視する視点が弱いからだ。冤罪の教訓が生かされていないとか、過程の検証が必要とか、犯人と決めてかかる傾向があるのではないか、とか、そのどれも「正論」ではあっても、本当に現実に食い込む指摘といえるのだろうか。そのことが、むしろ私たちの社会の中の捜査に対する決定的な不信感や、そこから生まれるはすの厳しい目を十分に生まれていないことにつながっているといえば言い過ぎだろうか。

 

 この国から捜査権力による冤罪は、依然としてなくならない。その理由は、社会がまだ甘くみている彼らの変わらない根本的な姿勢と体質にあるのではないか。そして、それを社会が直視しなければ、必ずまた起こると考えなければならない。司法改革がなぜ、この問題を最大の、そして最優先の課題にしないのかも、やはり問われる必要がある。



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