司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 自宅へ帰り、S弁護士に渡すための裁判所提出用証拠資料の準備を始めた。その証拠資料のなかに、精神的苦痛を裏付ける父の日記を見つけ、再度読み直した。ある日、姉が父親の身辺整理をしていた時に見つけた日記である。

 そこには、この事件の最中、周囲のだれも気付かなかった、父が受けた「心の傷跡」が、赤裸々につづられていた。そして、私たちは、それに衝撃を受けたのだった。

 「俺は近頃どうかしている。お金がよくなくなる。自分で入れたつもりが入ってない。使ったつもりもないのになくなる。おかしい」

 まるで、得体のしれない何かに取りつかれたような重圧な苦しみが、綴られていた。この日記を読み、改めて父親の生活環境が、深い悲しみの淵に置かれていたことが再確認できた。ヘルパーが介護訪問に来るたびに、お金が消える。おそらく、はじめのうちは、使った記憶のないお金が消える日々が続き、もしかしたら、自分の落ち度による紛失かと首をかしげながら、考え落ち込んでいったのだろうと。父は、まず自分を疑ったのである。

 しかしながら、度重なる現実に直面し、泥棒か、ということも何度も考えたろう。もしかしたら、夜中に泥棒がきて、窃盗しているかもしれないということから、家族のアドバイスで、家中の電気をつけっぱなしで寝る対策を講じたが、それでも、なおお金は消え続ける。

 この時点で父親は、確かに疑問を持っていたはずだ。しかし、父親は日々出入りする介護ヘルパーを疑おうとはしなかった。父が教員時代に、よく言っていた言葉を思い出した。父は、よく家族をはじめ、自分の生徒たちに、「人を疑うことは恥」と説いていた。どんなことがあろうともう人を疑うものではないと。この純粋な信念で、父はこの時も、人を疑う心を自分の中に封じ込めていたのか。私には、そんな風に感じられた。

 それゆえ、私が何度も父にお金の件で連絡をしても、電話ごしの父親は、ただ「分からん」という言葉を繰り返し、お茶をにごすように、私の質問をかわした。この状況を辛抱して過ごしていた父親の心理が想像できた。

 さらに、もう一つ思いつくことがある。当時、訪問介護ヘルパーやケアマネージャーはこのお金がなくなる件を、「使ってもないお金が消えるわけがない」、したがってこれは父側の問題だと決めつけ、ボケが始まったと勝手に推察して、父親の主張を軽くあしらった。このような扱いを受ければ、誰でも見放されたような孤独感を味わうのではないだろうか。

 そうした目で見られることで、父は一層、「自分はとうとうボケたのか」という錯覚に陥ってしまったのではないかと思う。だれも自分の言葉を理解してくれない、もどかしさ、悔しさ、寂しさ、孤独感――。父は何より、アルツハイマーの母と過ごした時間が長かったので、その耐えがたい恐怖は、だれよりも知っていたのだ。それは「出口の見えないトンネル」だったのだろう推測できた。

 だが、一方で、自分はボケてはいないのだと信じる努力を続け、日々日記を綴り続けていたのだろう。それはまさに葛藤の日々だった。姉は、これを見つけ読んだ時、涙がこぼれ、止まらなかったという。私自身、何度も電話をしたが、この心理状況を読み取れなかった悔しさだけが残った。この父の屈辱を晴らすということが、最後までこの訴訟に臨む私たち家族の原動力になった。私は、父の日記に、その思いを新たに視、再び証拠整理を念入りにしていった。



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