民事一審を最終的に本人訴訟で乗り切った私たちだったが、控訴審をどうするのか、まだ、最終的な決断ができないでいた。再び、弁護士探しをするか否か。それを考えると、なんだか振り出しに戻った感じがした。
一審のとき、弁護士探しに血眼になり、困難を極めた日々を思い出す。その経験を振り返ると、やはり不要か、と気持ちになる。しかし、今回は、もう一段階アップした高等裁判所である。高裁の裁判官が、こちらの主張や立場を、どこまで理解くれるのかによるもの、全く新たなるステージという感じがしてしまう。なんだか、裁判そのものが振り出しに戻ってしまうような、そんな緊張感をもって受けとめていた。
それなりの戦術と知識が、これまで以上に求められてくるのではないだろうか。例えば、仮に陳述書を通じ、圧倒的に相手方弁護士の主張を論破したとしても、その先に仁王立ちになって、判決を下すのは、高裁の裁判官である。それが、どんなものか全く想像できない私たちには、その壁を打ち破るのに、どれほどの力が求められるのか、率直に専門家の聞き、その助けがほしかった。
ここで、私が相手側陳述書より、裁判官自体に警戒を強めたのには理由があった。それはほかでもない、一審のときの最初の裁判官の、私たちに対する雑な対応だった。このショックが、私のなかで、ずっと引っかかっていた。すべては裁判官によって決まる――この運不運が左右する、それこそ裁判当事者に、避けがたい現実を私たちは学んでいた。
一審の途中で、裁判官の異動があり、引き継いだ裁判官が事件の詳細を真摯に受け止め、私たちの書類や調査書をきちんと眼を通してくれたおかげで、裁判そのものの流れも変えることができた。本人訴訟の勝利は、やはり運を味方につけた勝利ではあったのだ。
もう一度、本人訴訟で自分たちの力を試すのはいい。しかし、運が味方してくれるとは限らない。闇雲にぶつかっていって、果たして大丈夫だろうか。やはり法律専門家を味方につけなくて大丈夫だろうか。運が左右した一審の経験が、むしろ今、私たちをそんな気持ちにさせていた。
やはり、司法に精通した人物に接触し、話を聞くことを考えた。これまでの経験を踏まえると、この件を全面的に引き受けてくれる弁護士を見つけるのは容易ではないかもしれないが、少なくとも第三者的立場から、この案件に興味を持ち、指南してくれる人物もいるのではないだろか。そんな観点から探すことにしてみた。しかし、今、振り返えれば、正直、父親のことを考慮すると弁護人はいた方がいいとは思いながら、本人訴訟になる覚悟と予感は、既にこのとき私たちのなかにあったように思う。