司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 裁判員制度について、「なぜ、制度が必要なのか」と「なぜ、市民が裁きに参加しなければならないのか」という二つの根本的な疑問に対して、制度を推進する側は常にこれを一体のものとして、極力区別しないとらえ方をしているように思える。有り体にいえば、前者の疑問に答えることが、同時に後者の疑問に答えることになる、というような。

 

 いうまでもなく、市民の常識を裁判に反映させることが現在の司法に必要というのであれば、あるいは司法がそういうものでなければならないというのであれば、市民が裁きに参加する制度によって、それを実現することも当然に導かれるという話である。

 

 ところが、後者の問いかけをするものの疑問は本来、解消しない。なぜかといえば、仮に今の司法の判断に問題があって、市民の常識が反映する必要があるのだとしても、それが市民の直接参加によらなければ実現しないのかの説明は求めなければならなくなるからだ。つまり、何度も繰り返しいわれる制度的意義の説明は、そもそも強制までして市民の直接参加させなければならないことへの100%の説明にはなり得ないのである。

 

 実は、この部分にこそ、参加市民にとって切実な制度的な問題が存在していたといえる。参加する市民の負担を市民はどうとらえるべきなのか。人を裁くという特殊で重い役割の強制に対して、裁判官という特殊な資格と訓練に基づく、職業を自分の意思で選択しているという理解は決して間違っていないし、だからこそ、今、問題になっているような特別な精神的負担も、その職業的な自覚の中で向き合っているという見方は、何も不自然な捉え方ではない。

 

 そうであればなおさらのこと、仮に市民の常識と現行裁判の結論が離反しているというのであれば、まずはそうした前提を伴ったプロの質的変革であっていい、と考えるのもまた自然である。それをあえて、ダメというのであれば、それ相当の前提がなければ、本来、説明できない。なぜならば、いうまでもないことだが、それこそ医療にして治安にかかわることにしても、さらに死とも向き合わなければならなかったり、大きな責任を伴う仕事が、プロとしての自己選択と職業的自覚と特殊な訓練によって成り立ち、また、市民はそのプロへの信頼のもとに頼るという形が、この社会に当たり前に存在していることを知っているからだ。

 

 そして、いうまでも裁判員制度ができるまで、時に命を奪う科刑を決断しなければならない裁判官は、まさにそういう存在だったのである。

 

 結論からいえば、裁判員制度導入をめぐる議論は、今に至るまで、この事実に対して、果たして正面から向き合ったと言えるのかは甚だ疑わしい。というよりも、極力、こういう議論になることを回避しようとしたようにもとれるのだ。それは、逆に言えば、こここそ何としてでも制度を導入したい側にとって説得が難しいと考えた、飛び越したいテーマだったのかもしれないと思えるのだ。

 

 市民の直接参加しか手がない、ということを強調するには、それだけどうしようもない現行裁判の市民乖離や、法曹養成改革の無力をいわなければならないが、そうもいかない。片や前記したような職業裁判官の自己選択と訓練と職業的自覚に現実問題として支えられていることを重くみるほどに、市民の不安や現実的負担を相当程度伝えなければならなくなるが、それをやれば敬遠傾向に拍車がかかってしまう。なんかしたいと思えば、まるで「選挙」のようなイメージでの民主主義という言葉で参加の意義を強調し、「納税」のような義務感を伝え、そして、極力負担よりも「誰でもできる」というイメージと、プロも付いているという、あいまいな安心感でこれを乗り切るのが得策ということになる。

 

 そうであればこそ、この制度が、憲法にもない義務と、本来、与えられることにならないはずの裁判官同等の地位を、前記職業裁判官を支えてきた前提なき市民に与え、さらに「裁く」という行為が極力軽く描くといった、それこそ専門家たちをして、首をかしげざるを得ない無理、矛盾を生まれた説明もつくのである。

 

 「お任せ司法」などといった、あたかも前記前提に基づいてきたプロの信頼をけしからん「心得違い」といわんばかりの論が、少なくともプロの間では、この制度導入を牽引する言葉として流通した。しかし、彼らにとって幸いにも、推進派大マスコミの力もあり、納税者市民の信頼に関する適切さの疑問を市民の中に生むことはなかったのである。

 

 死刑関与の負担、そもそも量刑まで関与させる制度の無理も、まさにこのテーマとつながればこそ、徹底的に議論し、あるいはそれこそ参加させられる市民にその妥当性を問いかけるに問いかけることなく、彼ら推進派をして、駒を進めなければならなかった、とみることができる。そして、案の条、そのツケが制度の綻びとして露出し出しているのである。

 

 「裁判員制度 死刑と向き合う機会に」。12月28日の朝日新聞朝刊は、こんなタイトルの社説を掲載した。死刑判決に関与する裁判員の負担に理解を示しながら、人を裁くという経験によって、それによって実態が知られていないまま存続している死刑制度に向き合えるメリットを強調している。そこには、こんな表現も登場する。

 

 「裁判員が死刑求刑事件について判決を下すこともあるという仕組みから、私たち国民は逃れるべきではない。そもそも国家権力が人を裁き、罰することができるのは、主権者である国民の負託を受けているからだ。刑罰はあり方を決めているのは国民であり、その究極の表れが死刑だ。だが、これまでありに多くの手続きを、執行する刑務官ら専門職に負わせ、大多数の国民の認識から遠ざけてきた」

 

 だからなんだ、と問いたくなる文章である。国民の負託を受けてきた制度に対して、なぜ、今、市民が強制されるのか、なぜ、それが唯一無二の方法のような前提で、死刑制度と向き合うことから「逃げるな」と言われているのか。その答えを、またもや登場する刑務官への「お任せ」のなかに求めよ、と本気で「朝日」は言っているのだろうか。刑務官の仕事そのものが人権侵害であり、そのことが死刑制度そのものの問題であるという切り口が存在しても、それが市民の裁判への直接関与でなければ、向き合えない課題なのだろうか。その論理に立てば、国民が執行に立ち会い、ボタンを押させることだって、よい機会になるということになりそうである。相当な無理な切り口で、また、「朝日」は説明しきれない「前提」のうえに、「なぜ」の理由を飛び越えていないだろうか。

 

 誰も答えを説明できない、向き合ったら制度が持たない「なぜ」から、逃げているのは、参加から「逃げるな」という推進派ではないだろうか。こうした彼らの訴えかけを通して、私たちは、むしろそういう制度である現実を改めて理解すべきである。



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