司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 「多様性」とは、民主主義の努力や誠意に深くかかわるテーマである。社会の中の多様な意見にどう向き合うか、どう向き合っているかは、民主主義国家の住人が、何度となく問い直すべきことだ。多数決で決することだけに意味を見出し、その他のいくつもの意見を汲みとったり、調整することをしない国、コンセンサスが存在しない国は、どんどん本来の民主主義国家ではなくなるからだ。

 

 政権を渇望した政治家たちが叫んだ「決められる」ということだけでは、民主主義ではないのである。いや、むしろそこから入ろうとする人間たちの政治こそ、前記意味合いにおいては、逆に非常に危い。そのことを私たちは、思い知らされたのではないか。

 

 わが国の言論状況はどうであろうか。それを担うメディアが多様性を失うことへの懸念が広がっている。権力が決める公正・公平が、この国に今、ある多様な言論に触れる機会を奪う懸念である。あたかも「不当な誘導」をいうかのごとき権力者の論理のご都合主義は、多様性への姿勢において、民主主義への誠実度を測る尺度になるはずだ。

 

 「偏向報道」という言葉で世論の「誘導」を問題視する彼らの姿勢には、大きな不誠実な意味があることを確認する必要がある。各メディアによる視点の違う事情の取り上げ方には、「偏り」という言葉をあてはめることができるかもしれないが、だとすればこの「偏り」は、いうまでもなく前記多様性というテーマに誠実に向き合おうとするこの国の住民にとっては、むしろ非常に重要な意味があるからだ。

 

 さまざま角度の情報に触れ、そのうえで国民が選択する。実は、その機会保障こそが、私たちがこだわるべき、むしろ最低限の「公平」なのである。その「偏り」に「誘導」の懸念をいうのであれば、それを封殺するのではなく、言論で対抗すればいい。しかも、それを時の権力者がいうことのおかしさである。彼らは、仮にその「誘導」によって生まれた批判に対しても、封殺ではなく、真っ向から向き合い、説得してみせるべきではないのか。いや、むしろ説得しきれないのであれば、私たちにとって、その「誘導」には意味があったといっていいかもしれない。

 

 ものすごい権力側のご都合主義と、あたかも国民がメディアの誤ったイメージ操作に引きずられ、主体的な情報の取捨ができない存在とみるかのごとき侮り。そして、民主主義のための労力と努力を決定的に回避しようとする不誠実さを、私たちは見せつけられているのではないか。民主主義に求められる多様性も、それを支える努力も、「寛容さ」ということが意味を持つことは間違いないが、この言葉のイメージよりももっと事態は作為的で、深刻であるように思えてならない。「寛容さ」が失われているというよりも、ハナから駒を進めることしか頭にない、それが彼らの言った「決められる」政治だったようにしかみえないのである。

 

 安保関連法制で政権は、それを見せつけた。戦争に対する不安が、この国にいくら充満しても、とことん誠実に向き合う、いや「決められる」ということだけでは危険であるという、民主主義へ慎重姿勢を示すことがなかった。そして、いよいよ憲法にも、その不誠実な手が伸びようとしている。

 

 「憲法は教える。憲法を真に必要とするのは、多数派に異論を唱えたり、社会的に少数だったり、要は『変人』だということを」
 「自分は少数派にはくみしない、多数派の流れに沿っているという選択も、当然あるだろう。そのような人はおそらく憲法なんて意識せずとも生きていける。幸せな人生に違いない」
 「憲法を考える。それは、国家権力から私たちの自由や権利がちゃんと守られているかどうかを点検する作業だ。憲法は権力を縛るためのものだという立憲主義の考え方が、安全保障法の審議を通じて広く一般に知られるようになったことは、立憲主義が危うくなっていることの裏返しでもある」(4月14日付け朝日新聞朝刊「憲法を考える」)

 

 権力の不誠実さが、われわれにこの国の立憲主義の危うさを気づかせたかもしれないが、その一方で多様な言論と情報を入手する機会保障への「不誠実さ」がまかり通れば、そもそもわれわれは本当の多数派が何かも分からないのみならず、あるいはこの国に少数意見を汲み取ろうとする多数派も形成されなくなるのかもしれない。

 

 「決められる」政治の先に登場している、彼らの「不誠実さ」に、私たちはいよいよ敏感にならなければならない。



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