司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 〈一度出来上がったものを廃止する難しさ〉

 

 大久保太郎元判事は、「陪審制又は参審制の導入は……必ず失敗すると思う。むしろ有害無益の結果となることは見えているというべきである」と述べ、さらに、「殊に恐ろしいのは、一旦制度として作られてしまうと、すでに述べたように刑事立法の特異性として『やっぱり駄目だったか』と引き返そうとしても、それもできず、身動きがとれなくなることである。かくては、司法制度は、永久的に重い桎梏を抱え込み、恨みを千載に残すことになる」と警告していた(前掲判例時報1678号「司法制度改革審議会の審議に寄せて」40頁)。

 

 私も、国立民族学博物館小長谷有紀教授の「文明というのは制度と装置ですけれども、制度と装置が一旦できたらその制度と装置が合わなくなっても中々壊れにくいですよね。……どうしても綻びのまま、だらだら行ってしまう」という言葉を再三引用して(拙著「裁判員制度廃止論」62頁、「裁判員制度はなぜ続く」9頁)、制度というものが一旦できてしまうとそれを廃止することは本当に難しい、これは人間の業なのか、それに前記の「正常性バイアス」という、これも一種の業なのか、それら二つの業が悪い意味のシナジーを発揮して、いずれ取り返しのつかないところまで突き進んでいくのではなかろうかと悲観的に考えてしまう。

 

 

 〈警告を発し続ける必要性〉

 

 本来であれば、このような流れを押し止め、有るべき司法の姿への道を示すのはマスメディアであり、学者、研究者、そして日弁連であろうが、今はいずれも頼りにならない。「国境なき医師団」が発表した今年の日本の報道の自由度ランキングは、世界180か国中67位という情けない結果になっている。日本のメディアの抱える問題については「権力と新聞の大問題」(集英社新書、望月衣塑子外著)が鋭く突いている。

 

 司法は、今や、裁判員制度という、被告人の裁判を受ける権利の侵害、裁判員の苦役の強制等国家による人権侵害制度によって、あちこちに亀裂が入り、倒壊の危険に晒されている。私が最も危惧するのは、司法の独立に忍び寄る危険である。

 

 やはり、国民の多くが、正常性バイアスをかけないで、ことの危険性を認識し、警告を発し続けなければならない状況にあることは間違いがない。また、一度できたらなかなかそれを廃止させることができないと言われるものを何としても廃止させるためには、兎も角その危険性を叫び警告を発し続ける以外にはない。



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