いわゆる「平成の司法改革」では、法曹の質と量というテーマがつとに取り上げられた。「改革」の「バイブル」とえる位置付けにされた、2001年の司法制度改革審議会意見書では、「司法制度を支える法曹」の人的基盤の拡充として、「質量ともに豊かなプロフェッションとしての法曹を確保」を掲げ、それをこの「改革」の三つの柱の一つに据えた。
それを導いたのは、社会・経済の進展に伴う、法曹に対する需要の量的増大と、質的な多様化・高度化への予想である。つまり、我が国の避けがたい未来に対して、この質・量の確保策は、必要不可欠なものというとらえ方が基本にあった。そして、この前提から、法曹人口の大幅な増加策も、そのためのそれと一体となった、法科大学院を中核とする新法曹養成制度が、この「改革」で導かれたはずであった。
しかし、20年以上が経過した今、この法曹の質と量の確保という「改革」の柱についての、達成度を含めた評価が、不思議なくらい正面から取り上げられなくなっている。それはいうまでもなく、この「改革」が、当初、前記のような発想で推進しようとした側にとって、あまりにも不都合な結果に終わっているからとみることができてしまう。
司法試験合格率は、当初、想定した法科大学院修了者の「7、8割程度」が早々に達成できないことが判明し、その後も低迷。法科大学院の時間的経済的負担と相まって、志望者は減少し、司法試験合格年「3000」人の目標の旗は、早々に降ろされ、半数の「1500人」が最低死守ラインとなった。
一方、質に関しては、この「改革」の成果として、法曹が良質化としたという話はほとんど聞かれず、少なくともそうした定着化した社会的評価があるわけではない。司法試験の受験資格を握った法科大学院が、ことあるごとに「抜け道」扱いしている予備試験の人気は止まらないが、あれほど旧司法試験体制を批判して、その効用を強調した新法曹養成の「プロセス」を経ない予備試験組法曹が、法科大学院出身法曹より、質的に劣るという評価も聞かれない。それどころか、一部に予備試験組の能力により期待する見方すらある。
有意な差を示せていない新制度の現実は、取りも直さず、この法曹養成改革の無意味性を示してしまう。しかし、それだけにとどまらない。量的に増やしたところで、あるはずの需要は顕在化せず、弁護士の経済環境は劣悪化し、生き残りをかけて、採算性をより追求する傾向や、中には利用者市民のカネに手を付けるといった不祥事を生むなど、そのしわ寄せは利用者に回ってきている。また、こうした弁護士の経済状況の悪化は、前記法科大学院への先行投資を迫られることになった志望者にとって、合格後もリターンを期待できない現実として、さらに業界そのものへの敬遠意識を生んだ。
つまりは、「改革」を実行するプラスの意味性にとどまらず、もはやマイナス、後退との見方もあるのである。そもそも「改革」が描いた新法曹養成にあっては、21世紀の法曹として、経済学や理数系、医学系など他の分野を学んだ者を幅広く受け入れていくことが必要で、法科大学院は「多様なバックグラウンド」を有する人材を多数法曹に受け入れるため、法学部外の学部出身者や社会人等にも広く門戸を開放する必要がある、としていた。
しかし、単純に考えても、前記受験資格を握り、時間的経済的負担を課す法科大学院は、誰でもチャレンジできた旧試験体制よりも、多様な人材がチャレンジするものとはなりにくい、現実においても、新制度がそれを凌駕するようなインセンティブを与えるものでもなかった。
前記人的基盤の整備を引き出す文脈の冒頭を、前記司法審意見書は、「制度を活かすもの、それは疑いもなく人である」という、印象深い言葉で飾った。しかし、この新法曹養成制度の現実と、さらに「給費制」廃止という現実を重ね合わせてみても、この制度を支えるはずの法曹志望者を、この「改革」が意見書の言葉がイメージするような発想で、大事に扱い、その存在を重視した、とは、とても思えないのである。
そもそも当初の印象で言えば、質・量ともにと言いながら、圧倒的に量の拡充の方に、「改革」が前のめりになっていたことは否定できない。法曹教育実績がない大学に教育をゆだねる時点であった粗製乱造への懸念論を払しょくするために、これを一体のものとして強調し、胸を張った嫌いも否定できない。
良質化そのものについても、司法試験合格者数が伸びない法科大学院側から、より合格させよ、人材の良質化は、大量に生み出した法曹の競争・淘汰に委ねればよし、とするような意見まで聞かれた。また、あれほど旧試体制批判の中で、あれほど効用を強調した法科大学院を中核とした新法曹養成の「プロセス」論をかなぐり捨てて、人気の予備試験との競争条件の有利化を狙い、在学中の司法受験容認といった見直し案まで繰り出した。
必要だから増やしたはずの弁護士の潜在需要が顕在化しないとなると、増やしてしまった結果への対策として、途端に活用方法「開拓」の必要性が言われたりする。制度が効用としての良質化の実績が示せないとなると、そのこと自体の評価から目をそらし、作ってしまった制度の存続のための理屈が、優先的に繰り出される――。
想定の誤りを含めて、失敗を正面から認められない「改革」の列車は、法曹の質と量の拡充という、虚しいお題目を残したまま、その路線の上を惰性のように走り続けている。