司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

今から2年前の裁判員法施行の直前、日本を代表する大新聞の編集委員が突然、意見を聞きたいといって訪ねてきたことがあった。

 「最近、少々胃が痛いんです」

 彼の意を痛くしている原因を聞いて驚いた。それが、まさにまじかに迫っていた裁判員法の施行だったからである。もちろん、大新聞は基本的に裁判員制度推進派であり、えんえんとそうした論調を掲げてきていた。その中で、自身もそうした方向の解説を書き、論調をリードしてきた彼が、ここにきて自責の念にかられたようにもとれる発言をしたのである。

 聞けば、要するに彼を悩ましていたのは、急ぎ過ぎたのではないか、ということだった。国民の多くに不参加への意識がある。制度の意義はまだ理解されていない。大丈夫か――もう少し時間をかけるべきだったのではないかということである。

 その時、意見を求められ、制度の問題性について思うところを話したが、彼は基本的な制度の意義、要するに紙面で繰り返されている「国民参加」の意義については、確固たる主張をされ、他の問題性に比して、その優先順位を第一にすることおいては、全く宗旨替えをするつもりがない風ではあった。

 しかし、さすがに分かっていたんだと思う。つまり、「強制」という問題がこの制度にのしかかっている「不都合な真実」についてである。「国民参加」の民主主義的な効用が強調されるこの制度が、国民の理解に基づかずに、国民に課される、新たな「強制」である、ということである。

 世が世なら、という言い方もおかしいが、かつてならこの「強制」性に最もめくじらをたてていただろう弁護士会が、裁判員制度については、そうではなく、法曹三者足並みをそろえて、推進の旗を振った。

 驚くことに、「思想・信条の自由」による裁判員辞退も認めない側に回った。理由は、これを認めると、「真摯な理由に基づかない辞退希望者と区別がつかない」というものだった。区別がつかないと、辞退希望者が殺到して制度が維持できないかもしれない、ということである。つまり、この考え方は、制度維持のために、本来の「思想・信条の自由」を掲げた人間は犠牲になってもらう、ということ。つまり、これは「自由」ではなく、「強制」の方で統一しようとする考え方である。

 もちろん、この制度は国民が希望したものではなく、施行時点でも賛同を得られている世論状況ではなかった。「強制」という問題に目をつぶらなければ、そもそも制度推進はできないものだった。

 大マスコミは、多くの法律家が指摘していた憲法上の問題点などを含め、制度スタートへ、ただでも消極的な世論にやぶへびな報道は極力していなかった。おそらく国民の敬遠意識を最も刺激することになる「死刑」の問題、つまり裁判員自身が死刑判決に関与することになる厳然とした事実について、大マスコミが取り上げ出したのは、制度スタートの直前だ。さすがに全く触れていなかったというわけにいかなかったのだろうが、「なにをいまさら」というタイミングだった。極めて政策的な意図的なものを感じる。

 前記編集委員は、その時最後、さらに驚くべきことに、自分はあるいはこれから、施行延期の論調を掲げることを模索したい、という趣旨の発言もした。だから、いまこのことは口外しないでほしい、とも。口外して社に伝われば、そうした社内コンセンサスを得るまえに潰されるというニュアンスだった。

 それから彼がどういう活動をして、社内的にどういうやりとりがあったかは定かではない。ただ、裁判員制度はスタートし、その前にその新聞社が制度施行延期の論調を打つことも、大きくスタンスを変えることもなかった。彼は失敗したのか、断念したのか、はたまたそれ以前の話なのかは今は分からない。

 ただ、制度スタート後は、順調報道がなされ、さすがに国民のなかに制度の存在だけは周知され、その中に「国民参加」という制度意義も、それなりに刷り込まれて国民に伝わってきた観もある。

 しかし、制度のこだわるべきところが、こだわれないまま、棚上げにされてきていることにはかわりない。その責任は、大マスコミを含む推進派に責任がある。

 裁判員制度発足2年。司法への「国民参加」の意義の前に、フェアな判断材料を提供され、「強制」ではなく国民の意思が反映される形での、制度選択への「国民参加」の意義こそ、今、問われるべきだ。



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