司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>



 高市政権の武器輸出原則解禁に対し、世論調査では慎重・反対が多数を占め、デモも行われているが、この国の多数派国民が果たしてどこまでこの現実に強い危機感を持っているのが疑いたくなってしまう。

 日本経済新聞とテレビ東京が行った3月の共同世論調査では、武器輸出拡大に「容認」44%、「容認しない」は48%だった。同じ両者が4月に行った調査では、武器輸出を「増やすべでない」55%、「増やすべき」38%となっている。1カ月の間に、なぜか設問を変え、国民の意思を問うているが、設問の仕方によるこの反対の振れ幅は何なのであろうか。

 「反対」方向の回答は、リスクへの真剣な評価や危機感ではなく、平和主義的な「デフォルト回答」に近いとみる余地もある。検討段階の3月では、検討の方向を受け入れるのかを問われ、5類型撤廃を決定した段階の4月調査では、既成事実化したあとに、それを前提に程度について聴かれていると、回答者はとったともいえる。つまり後者の55%には、完全反対派と、既に決まったことは追認しつつ、これ以上は「増やすべきではない」という人が混入している可能性がある。これをどこまで「反対」にカウントできるのか、場合によっては決定後に異を唱えない層の厚さを示してしまっている可能性すらあるのだ。

 つまりは、こうした数値からは、本当にこの問題に対し危機感をもって、「自分ごと」としてみない、この国の国民の厚い層の方が気にかかるのである。構造的原因はいくつか推察できる。

 例えば、戦争コストとして実感のなさと不可視性。徴兵がある訳でもなく、増税との紐付け感もない。「輸出」という言葉自体抽象的で、その後誰が、とこでどのように使うのか、戦争と殺人に使われるのもとして見えない。しかも、それを具体的に国民に想像させる言語は、あるいは意図的に使われておらず、存在しない。つまりは「武器が人を殺す場面」と、この決定をつなぐものが、国民に提示されていないのだ。

 これは、米軍基地をめぐるわが国国民の「共犯性の不感症」ともいえる現実に、かぶさってみえる。日本国内の米軍基地が、米軍の軍事戦略に組み込まれ、他国への攻撃拠点になっている現実に対する、戦争加担・共犯という受け止め方が、多数派国民にはされていない。同じく日本製部品・装備が戦場で人を殺す・殺そうとしている現実があっても、「輸出」という抽象性と地理的距離感によって、国民は感じないで済ませている。

 いずれも自分たちの選択が、確実に暴力の連鎖に組み込まれているのに、その感覚が立ち上がらない。さらにその意味では、この感覚的鈍麻には、必然性もあるのかもしれない。日本国土が米軍の攻撃発進拠点として機能してきたという共犯性は、暴力の連鎖に組み込まれながら、既に多くの国民の感情には響かないものとして、定着してしまっている観がある。だとすれば、武器輸出への反応も、この戦後的な感覚構造の中で、受け止められる、いわば下地が出来ている中のものといえるのかもしれない。

 武器輸出問題は、国民との距離で考えれば、日本社会が戦後構造的に抱えてきた鈍麻の延長線上にあり、さらにこの「不感症」は、国民の無関心で括りきりない、国家的な意図としての、国民との距離の設計があるのではないか。問題が政策的に「見えにくい」基地に、「見えにくい」武器輸出が加えられたように。

 これまでもそうであるように、多数派の沈黙を、「容認」と読み替えて政治は政策を進める。国民はあるいはデフォルトの「平和」を唱えていた気分のまま、ずっと戦争と殺人の「共犯」として加担し、これからも新たに加担し続けることになるかもしれない。その現実に気付く、一つの機会が、今なのかもしれない。




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