特別国会の閉会に際した7月27日の記者会見で、高市早苗首相は、国会運営や自身の対応について、「反省点は特にない」と言い切った。「中傷工作」や「サナエトークン」問題をめぐる自身の発言や対応が、今国会の混乱や空転を招いたことは、彼女の中で、どうとらえられているのだろうか。自分は間違ったことを一つもしていない、だから反省の対象とは微塵も考えていない。そう一蹴するような強いところを見せた、ということなのだろうか。
この場面、かつての与党政治家でも、こうだったのだろうか、とつい考えてしまう。あくまで勝手なイメージなのかもしれないが、たとえ本心でなくても、結果責任への殊勝な態度を示す、頭を垂れるくらいの仕草の一つくらい用意されなかっただろうか。もはやポーズすらなくても、通用するという認識が上回っている、ということなのか、と。
会期末の国会は、答弁拒否と審議拒否の異常状態が絡み合い、最後まで空転を続けた。7月26日付朝日新聞社説は、「説明責任からの逃走 国会をゆがめた首相の独善」という見出しで、数の力で押し通す首相の資質と、自民党の責任政党としての劣化を断じた。私たちは、一体何を見せられているのだろうか、そして高市首相の振る舞いは、なぜ、表面上、堂々とわれわれの前を、押し通ってしまっているのであろうか。
国会を閉じれば、答弁を強いる術はない。問責決議に法的拘束力はなく、罷免権は事実上首相一人が握っている。会期という時間の外に出た政治家を追及する制度的装置は、司直の手による以外は、もとより存在しない。自らにかけられた疑惑に対する答弁回避に見えた多くの国民には、高市首相が会期末に向かって「逃げ切り」を狙っていると映ったのは当然だ。
そのいわば、「追い込む力」の空白を、かつて別のものが埋めていた、ともいえる。追及に代わるかどうかは別であるが、辞任という儀礼としての、いわば「禊」を演じさせる社会的圧力である。
高市首相の示すものは、少なくともこの儀礼すら過去のものになっている現実である。「もはや続けられない」「もはや続けるわけにはいかない」という、結果責任への政治家としての矜持と儀礼。制度も、政治家を自ら縛ってきた規範も、もはやすべて空洞化している現実である。
もちろん、儀礼としての辞任には、その本質が問われない形に批判もあった。結果責任をどうとらえたのかは、最後まで闇の中。社会的な帳尻合わせにも見える。しかし、戦後の政治が、多くの場合、それに落ち着くのも見てきた。空虚な儀礼に、機能があった。そして頭を下げるという最低限の所作を、政治家に強いるだけのなんらかの圧力は存在していたとみることはできる。
高市首相が体現している、もはやこの儀礼すら要らない、なくても通用するという段階。「反省はない」という言葉は、単なる強気の答弁に止まらず、もはや儀礼を演じる必要を公然と棚上げして見せた宣言である。彼女の独特のキャラクターとか、その無神経さで括ることもできなくはないだろう。ただ、むしろ儀礼さえも迫れない政治家との関係、それが生み出す政治家の自覚に、今こだわらなくて大丈夫なのだろうか。儀礼的にでさえも、結果責任の自覚に追い込む社会側の力が失われた段階と、われわれが自覚しなくてもいいのであろうか。
高市首相の姿勢に、またぞろ「ぶれない」「率直だ」という評価をする人もいるし、下降フェーズ入りながら、それでもまだ支持率の高さを言う人もいる。しかし、その一方で空虚な儀礼に宿っていた、政治家に行動を強いることが出来ていた圧力さえ、もはや期待できない段階に私たちはいる。
結果的に政治家を増長させてきてしまったわれわれの側の自覚の必要性については、以前書いた(「パッケージの中の国会軽視」)。しかし、もはや制度として、職業的な自己規律として、答弁に立つ政治家が、国民に自らが検証されることを拒めば拒み通せる、この国の現実あるいは深刻な兆候を、今こそ強い危機感をもって直視すべきであるように思える。