司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 「体罰」というものが、問題としてクローズアップされる度に、ほんの少しだけ、奇妙な感覚に陥る。

 小学生のころ、悪さをして、担任の先生から怒られるとき、ある罰を受けるとあった。「サントイッチ」といって、ほっぺた両方から挟んで、たたかれる。少し痛い。でも、先生はたたいた後、しばらく手離さす、やがてぐっと顔を近づけてこちらの目をのぞき込みながら、決まって静かにこういうのだ。「もう、やるなよ」。

 必ず考えてしまうのは、あれも体罰だったんだな、ということだ。一度、これと全く同じ、両方から挟むビンタが、「体罰」として例示されていたのを見た。形式的に、これは確実に体罰であり、現在、教師の問題行動として扱われることは間違いない。

 しかし、おそらくあの時代に、一緒に席を並べて、「サンドイッチ」を受けた生徒も、またそれを子どもから聞いた親も、その行為を許されざる体罰と感じていない。私自身、たたかれた後、先生の大きな手につつまれていると、先生の温かみが伝わってきて、痛さが消えていくと同時に、悪さへの後悔の念が湧き上がってきた、涙が噴き出してきたのを覚えている。今でも、印象は、優しく、いい先生だ。

 大阪市立桜宮高校の2年生が、所属するバスケット部顧問の体罰をきっかけに自殺したとされる件で、体罰の問題がクローズアップされている。この事件から、なぜ、こんな体罰をする教師存在したのか、あるいは存在できたのか、ということについて考えるとき、前記経験が教えることが無縁ではないように思える。

 実は、わが国の多くの人間が、「体罰」と認識していない体罰を経験している。学校教育上、体罰は、この国でずっと禁止されている。ただ、教育的意味があるという、一定の共通認識に立っていたような「体罰」が、かつてこの国では慣習的に容認されていた事実がある。

 児童虐待がクローズアップされた1990年代から状況が変わり、学校でも家庭でも体罰として問題視する傾向が強まった。問題とされる教師の行為は、際限なく暴力的であったり、個人の鬱憤晴らしと区別がつかないものであるなど、およそ教育的意味の枠を逸脱したものもあった。結果、本来いかなる意味におおいても許されざる体罰である以上、それまで慣習的に存在し得た教育的な「体罰」も、見直さざるを得なくなったように思える。

 しかし、実は、この国には根の深い体罰容認論が存在している。今回の事件を深刻に受け止めている橋下徹・大阪市長も、大阪府知事時代の2008年に「言っても聞かない子には手が出ても仕方がない」「注意すれば保護者が怒鳴り込み、頭を小突くと体罰だと騒ぐ。こんなことで先生は教育できない」などと述べ、「体罰容認発言」として物議を醸している。驚いたことに、その時も「過激発言」として社会が受けとめているかと思えば、ネット上の世論調査などで、一部で圧倒的な支持を受けたという事実もあった。

 つまりは、かつて慣習的に「体罰」を容認してきたこの国では、「許されざる体罰」と「許される体罰」が存在するという感覚が、実は前記したような実証的な経験として、多くの大衆のなかに存在しているのではないか。そして、生徒の問題に関して、それをかつて存在した「許される」教育的体罰がなくなったことと結び付ける「いい体罰」容認論ともいうべきものを存在させている余地を作っているのではないのか、という気がするのである。

 今回の事件の結果の重大性から、今、その声は陰をひそめているようにみえるが、この事件以前には、むしろ堂々とした「体罰」容認論は存在した。そこには程度の問題として、一線を引き、問題教師の資質を強調して、一定の「体罰」そのものは肯定しているととれるものもあった。今にしてみれば、前記体験からすれば、当時の教師との資質の違いで片付けることは容易だし、事実、そういう別の問題はあるにせよ、そのことがむしろ「体罰」絶対悪に立たない環境を作ってきたともとれなくない。

 そこには、「信頼関係」構築論ともいえるものもある。確かに、自分の経験からしても、前記今のその教師に対する感情を考えてみても、その「信頼」関係がいまでも尊敬の念として維持されていることと結び付けられるし、これは非常に容易だ。だが、あの行為自体は「体罰」だった。それだけに、これを今、「体罰」容認の条件のように、語るのは危険といわざるを得ない。

 なぜなら、このいわば「体罰」に対する、一定限度の温かい目の先に、今回のような事件が現実的に生まれてしまったからだ。そして、「サンドイッチ」の教師が、今、存在しているとしても、それを「教育」として続けているとは言い切れないし、彼自身は、とっくにそれが本来的には、一般化できない危険な行為だと気付いているかもしれない。

 まさに、桜宮高校の顧問は、彼を取り巻く、こうした「体罰」容認の環境が生み出したといってもいいのではないか。マスコミ報道などで流れてくるのは、その同校を取り巻く、決定的な「体罰」容認の空気である。そして、それは実は、私たち社会が、抱えている危険な空気なのではないだろうか。「体罰」容認を多くの人間が経験のなかに持つ国であるからこそ、そのことにもっと私たちは敏感になる必要があるように思う。



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