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 〈訴訟上の論点について〉

 

 柳瀬氏は、裁判員の職務の苦役性に関する憲法問題について、訴訟法上の問題と実体的な問題の2点を論ずる。

 

 訴訟法上の問題というのは、裁判員の職務が苦役であるから憲法18条に違反するという問題は、裁判員が訴えるならいざ知らず、苦役に晒されていない被告人が上告趣意とすることは許されるのかという上告理由適格の問題である。

 

 確かにかかる問題も検討を要するものではあるが、訴訟法上の問題を論ずるのであれば、上告趣意とすることを弁護人が明確に避けた、つまり、最高裁判所に対し態々判断してもらう意思はありませんよと断りを入れた点について、最高裁が、それを勝手に上告趣意として構成し判断を示したことの問題性こそ徹底的に解明すべきではなかったろうか。特に、柳瀬氏は、その点について「本件では争点を提起する適格性を理由に実質的な判断を行うべきではな」かったと解しているところからすれば、上告趣意とはされていない論点についても判断すべきではなかったとはっきりと言うべきではなかったろうか。ましてそれが原審で主張されなかった論点であればなおさらのことではなかったかと考える。

 

 

 〈実質的な論点について〉

 

 柳瀬氏は、大法廷判決が判示する、「司法権の行使に対する国民の参加という点で参政権と同様の権限を国民に付与するものであり、これを『苦役』ということは必ずしも適切ではない」との一文を取り上げ、結論として「通説としての(選挙権に関する)二元説は、『選挙権が公務執行の義務たる性質を強くもつとしても、それは「道義的な義務」であり、法律によって強制される「法律的な義務」だと考えるのは正当ではない』と解しているため、立法裁量論によって裁判員の職務等を『法律的な義務』とすることは直ちには正当化されない」と説く。

 

 最高裁判決は「参政権と同様の権限を国民に付与するもの」と表現し、道義的とか法律的とかには関係なく、「国民に義務を課すもの」とは全く述べていない。言わば、それは国が国民に対し与えた恩恵(四宮啓教授のいわゆる「プラチナチケット」)だと言わんばかりのことを言っている、つまり大法廷判決の示す「参政権と同様の権限の付与」との表現は、国民を裁判員に強制することはしません、なりたい人だけなって下さいという意味以外のものではない。

 

 苦役に関する通説は「広く本人の意思に反して強制される労役」を指す。最高裁判所は、裁判員となることは国民の権限であるから本人の意思に反してまで担当していただかなくても良いですよと、この国民の司法参加を解しているから、裁判員の職務は義務ではないし従って苦役でもないとの結論になるのは論理の必然である。裁判員の職務を担当して急性ストレス障害になるのは参加したのが悪い、具合が悪くなっても辞退しなかったのが悪い、断ってくれれば良かったまでのことであり、その職務内容そのものは苦役ではない、これが最高裁の裁判員の職務と苦役に対する基本的なスタンスだということである(拙著前掲「廃止論」198頁以下)。

 

 なお、柳瀬氏は、「現裁判員制度の設計に深く関与し、推進する立場だった最高裁が、辞退に関して柔軟な制度を設けられていることを強調するのは政策的に妥当といえるか否か、疑問なしとしない」趣旨のことを述べる。この指摘には重大な問題が潜んでいる。

 

 最高裁は裁判員制度の制度設計という、国策の推進に深く関与した事実の存在を断定していることがその一つである。さらに、その点についての問題性を指摘することなく、最高裁は、司法府としても、自ら設計した制度の方向と異なる意見を述べることは政策的に妥当といえるかとの疑問を呈していることである。最高裁は、違憲立法審査権を行使し得るものとして、本来、制度設計にかかわるべきではなかった(前掲拙著141頁以下)。それ自体も問題であるが、仮にかかわったとしても、立法府の成立させた法律に対しては、司法府として、以前制度設計段階でどのように関与したのかなどにかかわりなく白紙の状態で独立して違憲性の審査をなすべきものである。政策的に妥当か否かなどを考慮することは許されないことである。「政策的に妥当といえるか否か疑問なしとしない」との意見は余りにも軽率不適切なものである。

 

 なお、最高裁の苦役に関する判示は、柳瀬氏も述べるように、最高裁が真正面から取り組み緻密な理論構成によって出された結論ではない。肩すかし的、極めて政策的な判示であることは間違いない。



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